急速な勢いで進化しているロボット工学も、最近になってやっと「リアル」の意味を真剣に検討し始めたようです。
死ぬまでにはガンスリンガー・ガールを見ることができるかもしれません。
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ここは、ガンスリンガーガールについての感想などを述べるサイトです
正義と悪
「ありがたいことに私の狂気は君達の神が保障してくれるというわけだ。よろしい、ならば私も問おう。君らの神の正気は一体どこの誰が保障してくれるのだね?」
―ヘルシング―
筒井康隆の短編に、「旗色不鮮明」というものがありますが、現代ほど正義を定義しにくい時代はありません。声高に正義を唱える国や体制ほどそれから遠くなるという逆説的な話もあり。
かつては、医学は誰も疑う余地のないほど絶対的な正義でありました。ところが、最近は寿命を長引かせることは正しいのか?という議論まで出てくる始末。況や政治をや。
というわけで、ガンスリンガーガール。政府とその特務機関(の隠れ蓑)である社会福祉公社 v.s. 五共和国派という、「一見」分かりやすい構造になっているにもかかわらず、話はそうシンプルではありません。
五共和国派の主義主張は、昨今のイデオロギーからすると必ずしも間違っているわけではありません(手段はさておき)。政府が全面的に正しいかというとそういうわけもなく。問題は1点、貧しい南イタリアの生活を誰が支えるのか、ということ。いわば、福祉国家となるのか小さな政府を目指すのか、という、純粋に政策論争にしてもいいくらいの微妙な話です。
社会福祉公社だって決して褒められたものではありませんね。瀕死とはいえ、勝手に女の子の身体を改造した挙句、自分の復讐のために利用してるわけで。しかも薬で洗脳して。
味方である首相が悪そうに描かれていることや、敵の一部が魅力的に描かれていることなどを考えても、単に白黒善悪の構造ではないことはわかるでしょう。そのあたりが深みを与えているのかもしれません。
伏線
ガンスリンガーガールでは、ともすれば見落としがちなちょっとした伏線があちこちにちりばめられています。その多くは、義体が崩壊するプロセスの前兆として描かれたものですが、ひとつだけ、最も大きい伏線が残されています。
それは、トリエラが子供を産めるということ。いつ、どういう形で回収するのかわかりませんが、エンディングのひとつのキーワードになるのかもしれません。
トリエラの監督官であるヒルシャーは、他の監督官と違って唯一、自分から望んで公社に所属したわけではありません。トリエラを救うために、そのためだけにここで仕事をしています。 そして、それはトリエラにもいえること。生来の知能の高さと責任感が彼女を殺しに駆り立てていますが、本来それは彼女がやりたかったことでもなんでもないわけで。ヒルシャーによると、トリエラに託されたのは「この世の善意を体現すること」であって、人を殺すことではありません。また、今の仕事がラシェルの遺志かというと、それも非常に疑問です。
このフラテッロは、その目的意思において非常にあいまいで、微妙な立ち位置にいるように思えます。
ラストシーンでは、おそらく対立構造が変わってくるものと思いますが、そのときにどういう行動をとるのか興味ありますね。「この人とどこまでも」の言葉が、どういう行動につながるのか。
いつか 行けるのなら 遠い海へ 世界の果ての果てまで
そんな所にたどり着けたら どんな気持ちになれるのかな ―”doll”
海が羊水の暗喩だとしたら。トリエラの目指すところは、母になることでしょうか。
トリエラの存在は、救いのない暗い物語(パンドラの箱)に残された、たったひとつの希望なのかもしれません。この救いのない物語のラストシーンが、たとえばマリオの手配した南の島で、わが子を抱いて眠るトリエラの姿であったなら、それで十分です。
カテリーナ
Gunslinger Girlの5巻は前半の集大成とも言える区切りの章ですが、フランカ・フランコのコンビもこの章で行方不明になります。ピノッキオの育ての親であるクリスティアーノを助けるために、先にクリスティアーノ邸に向かったピノッキオを追いますが、社会福祉公社との銃撃戦になり、フランカ・フランコ・クリスティアーノの乗ったアルファロメオは海に落ちていきます。そのとき、最後にフランコが呼びかけたのは、フランカの本名「カテリーナ」でした。
フランコはずっと、カテリーナのことが好きだったのでしょうね。
ちなみに、車にちなんだ名前が多いガンスリですが、カテリーナはSAABのスポーツカーです。フェアレディZの原型ですね。
Nokia 9210 Communicator
Gunslinger Girlでは、作中に登場する小物にもけっこう気を遣っていて、リアルな描写が多くなっています。5巻でイルマがドラーギ課長に報告する際に使っているのが、Nokia 9210i 。このところ話題の、スマートフォンの原型ですね。
トリエラのショットガン
マリオがヒルシャーを救出に来たときに持っていたものだったんですね・・・。(10巻参照)
GUNSLINGER GIRL 10巻 相田裕 メディアワークス
「いずれ尽きるならば、激しく燃えることこそ本望と行き急ぐ彼(彼女)に、周りは何を言うべきなんだろう」―――あまりにも性急すぎるトリエラの生き方に戸惑いつつも、彼女の生をできる限り永くあらせたいヒルシャーの苦悩。トリエラを守って死んだラシェルによく似た女検事・ロベルタは、こう答えます。「それでも想いは伝えるべきだと思う。他人のために生きる人生だってきっとあると。たとえ薄暗くても、長く燃えてと望まれる火だってあることを」
社会福祉公社は、クローチェ検事殺害の真犯人に近づきつつあります。義体の寿命、真犯人の手がかり。公社の運命と政府の意向。そして、アンジェリカの死によって否応なく自らの寿命に思いを巡らせるヘンリエッタ。己の過去を知り、世の中の悪意と対峙することをラシェルに託され、その生を全うすることを決意したトリエラ。そして、苦悩する彼女たちに寄り添うジョゼとヒルシャー。
人生を捨てて、トリエラを救ったヒルシャー。表紙には賛否両論あるようですが、それを知ったトリエラの素直な気持ちがよく現れていると思います。
― いつか聞いてほしいこの思いも 言葉にはならないけど
力の限りを振り絞って 泣いて叫んで 伝えるから ― (doll.)
いろいろなものが終局を目指して収束しつつあります。
“doll” ~ GUNSLINGER GIRL-IL TEATRINO-
Gunslinger Girlのアニメの二期は、”萌え”を前面に押し出しすぎたせいか、なんというか残念な子という評価が大勢を占めていて残念なのですが、音楽に関してはその評価は当てはまらないようです。麻枝准作詞・作曲でLiaが歌い上げるEnding曲の”doll”は、Gunslinger Girl本編の少女たちの哀しい境遇を背景に、すばらしい名曲に仕上がっています。
アニメ本編では、エンディングをLiaと多田葵が分担しています。最終話のみ、Liaによるhumanが流れます。この、dollとhumanは明らかに対をなしている曲と思われます。2つの曲の歌詞をつなげてみればわかるのですが、dollでは、”いつかゆけるのなら遠い海へ 世界の果ての果てまで そんな場所にたどり着けたら どんな気持ちになれるのかな” humanでは”終わりが訪れ 今僕の生命が始まる あたたかな水の中で身をまるめていた” と結ばれます。
二期の主人公はトリエラと、トリエラの裏面とも言うべきピノッキオです。”あたたかな手から生まれた 心を持たない人形”は、トリエラが救われた状況から、ラシェルとトリエラを表していると思われます。あるいは、クリスティアーノとピノッキオかもしれませんね。また、ヘンリエッタと違い、ヒルシャーに素直に感情を伝えられない彼女の心情が、”いつか聞いてほしいこの思いも 言葉にはならないけど 力の限りを振り絞って 生きていくことを知るから”という歌詞で表現されていると思います。また、”裏トリエラ”とも言うべきピノッキオは人間ですが、その生い立ちから義体と変わらない心情の持ち主と思われます。この二人が、doll(義体・殺し屋)から、human(人間)へ至る過程が、まさにこの2曲にこめられているのでは、と思うのです。
アニメの二期は、そのキャラクターデザイン・演出などから不評の限りでしたが、それでもこの”doll”/”human”を残してくれたことは幸いだったと思います。この2曲に、Gunslinger Girlの核となるテーマが込められているからです。アニメはともかくとして、原作ファンの方はぜひ、聴いてみてください。きっと響くものがあると思います。


